御手洗の花街:繁栄と文化、そして現代への継承
御手洗(みたらい)は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島にある港町です。江戸時代には、風待ち・潮待ちの港として栄え、多くの船乗りや商人が行き交いました。その繁栄を支えた一つが、花街の存在です。
御手洗の花街の隆盛
御手洗の花街は、江戸時代中期から明治時代にかけて最盛期を迎えました。特に、北前船の寄港地として栄えたことで、多くの船乗りや商人が訪れ、遊女屋(茶屋)は賑わいました。御手洗の遊女屋は、単なる遊興の場ではなく、文化の発信地でもありました。
- 遊女の数と役割: 御手洗の遊女の数は、当時の人口と比較して非常に多かったことが特筆されます。例えば、明和5年(1768年)には、御手洗の全人口543人のうち、94人が若胡屋、藤屋、海老屋の遊女でした。蒲刈に籍がある遊女を含めると、120~130人もの遊女がいたと推定されています。これは、当時の御手洗の人口の2割以上を占めていたことになります。遊女たちは、単に客をもてなすだけでなく、町の祭礼や行事にも積極的に参加し、華やかな彩りを添えました。
- 経済的支柱: 遊女屋は、御手洗の経済を支える重要な役割を果たしていました。祭礼の費用を負担したり、町に資金を貸し付けたりすることで、町の経済活動に大きく貢献しました。
- 文化的交流の場: 遊女屋は、様々な人々が集まる場所であり、情報交換や文化交流の場でもありました。船乗りたちは、各地の情報を持ち寄り、遊女たちはそれらの情報を町の人々に伝えたと考えられます。また、遊女屋には、多くの文化人が集まり、芸術や文学が花開きました。
御手洗特有の文化
御手洗の花街には、他地域とは異なる独特の文化がありました。
- おはぐろ伝説: 御手洗には、「おはぐろ伝説」という有名な伝承があります。若胡屋の花魁が、客のために鉄漿(おはぐろ)を付ける際、禿(かむろ)に手伝わせたところ、上手く付かないことに腹を立て、熱い鉄漿を禿の口に注ぎ込んで殺してしまったという話です。その後、花魁は禿の亡霊に悩まされ、四国遍路に出たといわれています。この伝説は、遊女屋の繁栄の裏にある悲劇を物語っており、現在でも若胡屋の壁には、禿が吐いたとされる黒い斑点が残っていると伝えられています。この伝説は、遊女に対する町民の反感の表れとも解釈できますが、一方で、遊女屋の呪われた運命を語ることで、町民が小気味よさを感じていたという側面もあったようです。
- 火の車の塔: 御手洗には、「火の車の塔」という石塔があります。この塔は、宝暦年間(1751~1764年)に、髪結いの和助という男が火の車に乗って現れたという伝承に基づいて建てられました。和助は、普段から人柄が良く、遊女たちにも評判の良い人物でしたが、突然死んでしまい、その魂が地獄へ向かう火の車に乗せられたという話です。この話は、当時の人々の死生観や、仏教的な因果応報の考え方を反映しています。また、この塔は、遊女屋が和助の供養のために建てたものであり、遊女屋と町民との関係性を示す象徴的な存在です。
御手洗の花街の構造
御手洗の花街は、築地通りを中心としたエリアに形成されていました。
- 築地通り: 築地通りには、遊女屋、旅館、飲食店、髪結い、湯屋などが立ち並んでいました。この通りは、花街のメインストリートであり、夜遅くまで賑わっていました。特に、千砂子波止に近い場所は、最も賑やかだったと言われています。
- 芸妓検番: 築地通りには、芸妓協同組合の事務所でもあった芸妓検番が置かれていました。芸妓検番は、芸妓の派遣や料金、時間の設定を取り仕切る場所であり、また、娼妓の案内所としての役割も担っていました。
- オナゴヤ: 御手洗では、遊女屋のことを「オナゴヤ」と呼んでいました。オナゴヤには、遊女たちが生活する部屋が設けられており、多くの場合、6~8畳程度の一人部屋が与えられていました。
他地域との違い
御手洗の花街は、他の地域の花街と比較していくつかの点で異なっていました。
- 海運との結びつき: 御手洗の花街は、北前船をはじめとする海運業と密接に結びついていました。船乗りたちは、風待ち・潮待ちのために御手洗に寄港し、その滞在中に遊女屋を利用することが多かったのです。
- 遊女の親近感: 御手洗の遊女たちは、町の人々から親近感を持って接せられていたと言われています。彼女たちは、祭礼や行事にも積極的に参加し、町の一員として受け入れられていました。
- 文化的な役割: 御手洗の遊女たちは、単なる遊興の相手としてだけでなく、文化的な役割も担っていました。彼女たちは、当時の流行歌を歌ったり、三味線や胡弓を演奏したりして、町の人々を楽しませました。また、遊女屋は、文化人や芸術家が集まる場所であり、文化の発信地でもありました。
現在の観光資源
現在、御手洗地区は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、江戸時代の面影を残す町並みが保存されています。御手洗の古い街並みは、歴史的な建造物や神社、遊女屋跡などを巡りながら、当時の文化や生活様式を感じることができます。
- 若胡屋: 若胡屋は、御手洗で最も有名な遊女屋跡であり、その建物は昭和15年に県史跡に指定されました。若胡屋の建物は、京都における江戸時代初期の建築様式を色濃く残しており、当時の建築技術の高さをうかがい知ることができます。
- 火の車の塔: 火の車の塔は、御手洗の歴史を物語る重要な文化財です。この塔を訪れることで、御手洗の独特な伝承や、当時の人々の信仰心に触れることができます。
- 蛭子神社: 蛭子神社は、御手洗の守護神として古くから信仰を集めてきた神社です。蛭子神社の祭礼は、かつては御手洗町最大の祭礼として知られ、遊女たちがその費用を負担していました。
- 町並み散策: 御手洗の町並みは、江戸時代の雰囲気を色濃く残しており、散策するだけでも楽しめます。古い家屋や石垣、路地などを歩きながら、当時の人々の暮らしを感じることができます。
まとめ
御手洗の花街は、単なる遊興の場ではなく、町の経済や文化を支える重要な役割を果たしてきました。遊女たちは、様々な人々との交流を通じて、御手洗の町に活気をもたらしました。現在の御手洗は、その歴史的な町並みを保存し、観光資源として活用しています。御手洗を訪れることで、江戸時代の花街の繁栄と、そこに生きた人々の暮らしに触れることができるでしょう。
この記事が、御手洗の歴史と文化への理解を深める一助となれば幸いです。