御手洗町町用覚

ゆみです。今年もよろしくお願いします。

今年から、御手洗地区に残る歴史資料の中で公開可能なものを少しずつ公開していこうと思います。手書きだったり、資料だったりするものをデジタルデータとして残し、御手洗地区で活動する自分たちの場所の歴史をよーそろメンバーで共有する目的と、皆の目に触れることで新たな発見につながることも期待してます。

資料のほとんどは古文や漢文ですが、今はデジタルデータにさえなっていれば生成AIで簡単に翻訳できたり要約できたりするので、原文の文字データのまま公開します。

第一回目は「御手洗町町用覚」という資料の原文です。これは文政六年(1823年)に書かれたものだそうで(原本は豊町に保管されている)当時の老人2人の口承に基づいた年代記です。各神社の謂れや祭り、町の共同体など生活の細かい部分まで記載があり、当時の生活の様子を生き生きと伝えてくれます。

★以下本文(読み取れない漢字部分を■で表記しています)本文末尾に現代語訳バージョンのPDFファイルを添付しています。AIによる現代語訳なのでご了承の上参考程度にご利用ください。


文政6年 豊町役場所蔵

一御手洗開關之事

(管公本川之井水にて御手を洗セ玉ひたるによりて御手洗の文字を地名に呼ふともいえり、又神功皇后御手を洗セ玉ひしともいえると此説当レリ聞エル也)

安永年中に歳九十に満る山岡の藤兵衛・岩志屋四郎兵衛なといえる老人ふたりのものかたりによりて伝へ聞、其年号をかそふれは延宝天和貞享の頃にあたり、此湊に諸のかかり船ある事を得意て初而大長より人家をうつし、それにつづきて近島地方の人々おもひおもひにより集りて斯繁栄の町をなし、尤安永の末までは竈の数纔二百にすこしあまりに、文化十とせにあまる頃日にいたりて凡四百戸内外たる市中となりぬ、されと旧記もなく只老たる人の説によりて其あらましをここに記のミ
前神号七郎大明神
一氏神宇津神社祭礼先年ハ大長のミに其沙汰ありて御手洗の祭は享保の頃よりはしまり、尤祭日は八月十三日陸地にて神興をむかへ奉りて十四日市中御幸あり、同夜大長へ還御のよし、其后宝暦の頃にいたり船となり、安永七八の頃より六月四日五日とハなりぬ
一荒神社はむかしより久比ノ洲の荒神と唱へ奉りて、此浦輪第一の古き社のよし、元は万舟寺裏門の上にありしを享和頃沖の浜新地今の所移し奉りしとなり
一蛭子神社は豊前の国小倉より元文寛保の頃ここに鎮座ましまして、仮の小社なりしに、此浦輪を厚く守護し玉ひかく繁昌の市中となりぬ、人々よりこそりて宝暦の頃にいたり今の社を造立しけり、まつるとなり、祭日九月九日十日に定りぬ
登りくたりの舟逆風にささへられ、此湊に日数をうつす時は此神にいのりをかけて順風を乞ふ事あり、其日和を乞ふ人々の中に小倉の船人なくては其日和もふしならすとなり、しゐて願ふとも其しるしもまたなしといひ伝へり
一弁天社はいにしへいささかの小社本川の上にありときき伝へしに、風雨のためにいつしか朽すたりて年久しく社地の跡もわからさりしに、柴屋礼次といへる人信心の願主にして、材木を寄附し、工匠湊屋甚六初め職方の人々よりこそりて工手間を合力し、文化はしめの頃再建ありし今社地也
祭日は

一住吉神社はいにしへより万舟寺の境内に鎮座ましまして、船持の人々あつまりて例年六月廿八日九日祭日にして賑ふ也

一鎌埜荒神社はいにしへより今の所にあり来て、畑持の人々造酒銭集め祭る也

一神明祭る事は宝暦の頃東組よりはしまりて其后又西組にも巻よしとなり、東西二ヶ所の余旧式を聞ぬなり

一正月九日初祭ととなへて宇津神の社内にて大長御手洗の若き人十人づつ二十人立会百手の弓射る事古格なり、射初る式は始て社司矢ニすしを持出的に向ひ放て、其ハヤを大長の弓太郎にゆつり、ヲトヤを御手洗の大関に譲の式なり、大長の席は北谷弓太郎の名ある役をつとめ南谷より大関を動ける式なり、されハ大長にては弓太郎を其日の主役といひつたへ御手洗にての席は大関を主とする也、北谷岡の家より其年の百手を勤る人あれは、除鬮になくしていにしへより其人弓太郎を勤メける大長の式なり、文化はしめの頃ーとせ岡の家に人なくして其弓太郎の鬮を南谷へ乞て、南谷の人弓太郎をつとめたることを北谷の人々つよくいひけれは、また南谷の人々も同し一村にありて同し氏子に生れなから、南谷にかきり弓太郎の役のつとめられぬ訳ある事をきかんなとつよく争ひて、神事にかきらすあくまても心よからす、其罪を憎む事一村の腹痛にして十とせに過ぬ、其訳かけかまひなき御手洗なからもかたてく沙汰して、かの社司より御手洗大関へ年久しく譲受来りしヲトヤを大長南谷の大関つとめる人に送りて、文化十三子の初祭より此事南北とも和順とハなりぬ

一国主祭は文化の中頃より国中一統の噂にして祭はしめしに、されと月日もさためかたく、神輿なと市中御幸の式ともありしに、近辺居祭のさたによりて文化十二戌の年より五月五日とさためて居祭に式を約まる也
一万舟寺は此地開けてより以来の観音堂にして、広陵真言宗明星院の末寺にて、本尊は十一面観世音也、三原屋徳左衛門といへる人所持の内仏なりしに、徳左衛門の家より夜な夜なあやしき光のあらハるるによりて、此里人いろいろためしミるに、不思能なるかな、かの内仏たりし観音の尊像より出る光明なる事をはしめてかんし入て、俗家に所持する事をはばかり万舟寺の本尊と崇たてまつると也、厨子はゆへありて明星院より送り来りしとなん、鷹の羽の御紋所なとあり、元文の頃より住職等あらたまりて直心法師の世代建ものなと追々調ひて一字の精舎となりたれとも、公のさたには観音堂と唱へ来りしに、安永年中密尊上人の世代に申いたり中本寺明星院のとりもち厚によりて南朝山満舟寺両号免許を蒙りしとなり、尤地主は新屋先祖也
(鐘つき堂の下菜園場は町分也、地床料壱ヶ年弐匁代五分つつ万舟寺■取立年番所江受取御高、年番■払出可申事)
一登光寺は裕円法師の開基にして正徳享保の頃建立ありしとなり、登光寺といへる額は大浜浦よりゆへありて来りしとなん、裕円法師は宮盛荘厳寺の門徒にして前新屋の隠居なり、故に宮盤村真宗荘厳寺の末寺掛所なり、されとも公のさたにはあらす、上向は裕円閑居所と答へ来りしとなん、
安永年中迄本尊と仰たてまつる所の如来御尺の短かなる事をくやミ、今の本尊は伊与人より預りて脇座に拝したてまつりしか、行基の御作仏にしてしかも御尺の長なるを称し、前の本尊は中本寺荘巌寺へ送りて今の本尊を正面へ安置したてまつる也、しかるに寛政の頃にいたり預ケ置たるいよ人預りの一札の持来り今の本尊を供奉しかへらん事を頻に乞ふ、年久しく此所の衆生をさいとし玉ふ因縁の深き事をおしミて人々こそりて市中奉加を企、多分の価をととのへ是を断りしなり、寛政享和の頃よりいよいよ法儀繁昌して年々家まし人殖るにしたかひ、心の施主いろいろを寄附し此所惣様の道場とはなりぬ
(沖の塗へい外菜園場は町分地、其訳は宝暦明和の頃はねり塀の下石垣かきりに往来の道なりしに、野分の高汐なとの時は人の通ひなりかたく、今の菜園場は真砂原なりしを町中談しうへ、万舟寺出切の小路先より愛宕町の出切迄一円に出入なく町辻より築調ひしなり、尤惣様の道場なる登光寺にて地床料の事は等閑になりしとなり)
一久比の隠居所は文化のはしめ頃、久比村称名寺隠居長病にして此所へ出養生のおもひたちにより、医師小林洞垣よりの願ひよりて隠居養生中の仮すまひなり
一芝居小家は延享寛延の頃より毎年春秋両度の免許を蒙りしとなり、前の家敷地は登光寺をあの所に移したき内証極りて、上向は筆頭大和屋久右衛門の名前にして同人家屋敷を質物となし、町方出来銀の内三〆目を拝借し、後質には外筆頭九人より大和屋久右衛門当ての証文を出し、かの地の石垣なとをととのへ、寺地の境内たる事程よく出来上り、既に登光寺を移すの時にいたり、上より咎めの沙汰ありて空敷明屋敷となりにし、其后芝居小家の免許を蒙りかの地に造立したりしとなり、しかるに天明の末にあたり野分の大風に倒れて家敷かハり今の所へ仮立の小家なりしに、享和のはしめ本小家にたてかハりしか今の小家也、しかるに大和屋久右衛門貸附の町出来銀三〆目の拝借としとしの勘定帳へ仕出しのミにて取立のさたもなく、払出の業も叶ひかたく、年久しく名のミにして済し来りしとなり、故に芝居請元の株にて筆頭の人くに預る所なり
△芝居小屋役桟敷へ三ツ引のてうちん釣来り被申候、文化年中対州御用之砌広島より御出張の御役人方御用之桟敷二かまへし節、御番組様迄御伺ひ御差図によりてともしはしめしとなり
△医者桟敷とは安永の頃芝居小家かかりによりて故障の事ありしに、医者方の挨拶によりて済より、此時請元より医者中へとしてさしきの内壱間無料二て貸し来りし也
△寺社筆頭入込さしきの儀者文化のはしめ請元申合之上、いつれもさしきのなき事をいたミて無料のさしきを貸し来りしと也、別の子細なし、尤方舟寺登光寺大長社司両家筆頭中、文化の頃より札はかり亭主分はかり無札にして木戸を通す也、夫6内ハ札銭取来りし事なりと聞
ーなかめ北部所は宝暦の頃町方金五両二て買求て此所の惣分なり、地蔵尊は寄附人の名台石に記しあり、石垣は寛政の始築ととのひしとなり、前卓は真信信人よりこそりて読いえる盗賊和尚泉州堺の産教信法師を万舟寺にむかへて法談ありし時法礼のあまりにてこれを居へしとなん、前の方
明地先年より無料にして年久しくこやし置来りたるを、文化十三年にあたることし畝数をあらため料を極めて人別にかし付しとなり、其事年番元の根帳にくハし
一社倉蔵の脇菜園場年久しく明地たりしを文化十三子秋地床料貸附なり、年番へ取立有之候事
一若胡屋の元祖は権左衛門といへるものにて広島中の棚にありて魚の店を業とするものなりしに、いかなるゆへにや長州上ノ関に住居し、上ノ関にてはめんるい屋の株なりしよし、享保の頃より茶屋子供をつれ船後家の商売をいとなミ、此湊にかよひ得意をもとめなしミをかさねしに、かねて船宿をたのミし肥前屋善六といへるもの、世話となり小家をかり見セなと出し、いつしか此所の帳に入て住人とハなりぬ、されと今にいたりても十ヶ月かきりに上ノ関へ人くたし、若胡屋太吉とある名前の往来引かへのさたあるは此いハれなり
(上ノ関の手をきらん事の上よりも内意深きによりて、安永六七の頃東田村庄屋弥一兵衛といへるを原田屋弥兵衛といへる町人にして、村田屋彦三郎石見屋清右衛門のふたりを差添上ノ関へくたり、いろいろのとりくミをなし数日をかかりし内弥兵衛病気にとり合中もとりして、代りの人中ノ村庄屋五作中屋五兵衛といへる並人の名前になり、厚くかけやいありしに終にはわかりかたくして空敷かへりしとなん、多分ものいりて胡屋よりわきまへしと聞ぬ)
一堺屋は安芸郡蒲刈の茶屋なりしか、延亭寛延の頃より若胡屋に等しく比湊へ船にて後家商通ひしか、陸にあかり蒲刈の出店建にて住居し、大節季なと蒲刈へかへりて正月年礼なとして此所へ来りたる事旧式たりしか、亭主伝蔵栄介ふたりとも打つ、きて不仕合して難渋にセまり一跡かまかりへ引取しか、いよいよ極難に沈ミて公借なと多くなり蒲刈の手を放しきり、寛政の頃至り此所へ入帳して本住居とハなりぬ
一今の藤屋は元のいよや也、京藤屋正蔵といへる人は当所の服屋なりしか、貸方のかはりに連戻り寛延の頃油屋源三といへるものの世話よりて立行しか、又其後源介といへるもの亭主となし藤屋と改名し、其后又とんた屋平兵衛を世話人に至セし也
一海老屋は宝暦之末予州より住居したりしと聞及ぬ、元祖市右衛門いよ路のものなり、委事を不知
一八番組之内、廿日市屋嘉右衛門裏築出し之儀者外並建り合も有之、決而不相成事二有之候所、爰向船数之節荷物揚下之場所姪子之社前而已二て者差閊之儀侭有之、問屋方及難渋候趣二付、廿日市屋嘉右衛門■之任願享和之始示談之上築調候也、尤建ものハー円相成不申事
一諸家督他国江売切之儀者証文面名当他国人直名前二者不相成、買受之方角より当村町者勿論御領分中二て之雪受引致候様取計ひ可申事
附タリ入質ものの儀者格別之事
一町内之者分散仕候ハハ裏家住居可仕事、十五ヶ年之間表通り宿替不相成建りなり
一蛭子之鼻ヨリ白潟壱本松迄之間数三丁十五間也
一ヘラ神崎両島之こへ草料として一ヶ年四拾目ツツ大長■参ル分、文化十一戌年■三笠屋へ預ケ置也
一小島中ノ島枯木売捌割賦方、先年■御手洗分割当之儀一円不沙法趣、筆頭■町代勘兵衛を以大長役方へ尋越候処、年寄柴屋兵蔵殿へ及相談、右枯木売捌割賦を以大長権現社普請を仕来り、仍之同社之奉加八御手洗へハ不申参旨之答あり
一小島中ノ島松茸運上五拾目
一三番組山岡藤屋新兵衛居宅、無願二て町分往来道ラ付かへ前之往来道ヲ家敷へ取込家造り致候二付、重而普請仕候時ハ相約候建之事
一四番組樽屋平十郎居宅両方往来道江家出張り居申也
一五番組之内三蔵居宅并大長廿日年徳右衛門持分貸家二軒、壁かきり往来之小路幅二て、家たれ水は町分へ落る也
一大長宮本屋隆平儀ハ元加茂郡仁方村之住人有之候処、酒造商売而巳之願二而大長村へ引越之住居相叶候儀二有之候、尤同人儀大長住居仕候而御手洗町方へ差障候儀ハ無之哉否之儀御役所■御尋有之候処、酒造商売而巳之儀二候へは強而差障無之由申答へ、仍之住居之御免許有之候事、外商売体不相成書もの請取有之候筈なり、文化七八年之事なり
一近年大長沖友之両浦■町方住居之望有之二付、村方役中■之任頼二人柄見立候上ハ町方江入帳致来候儀二有之候所、右両浦出入之内浜株之者余程有之候趣二被相考候、此者共之儀ハ村方ニおゐても不並成建り合も有之候様子承り合居候事故、此筋目当り候ものハ子々孫々迄当所おるても役烈者勿論、筆頭十人頭等之小役二ても申付候義は堅く不仕段之法則申合之事候条、以来迚も在役之人々其心得を以取計可申事
附たり
(町方へ罷出申度願ひ有之候ハハ陸浜いつれ之者ニても、其人柄見立不宜ものハ無用捨相断可申事)
一判形者毎月於用所役人年行司筆頭十人頭集会之上、壱番■十番迄人別相添宿替頼筋等承合相約り候ハハ、従御上被仰出候判形帳前書之通御法度筋并二臨時御触書読聞筆頭之筆順を以判形仕せ可申候、尤呼出し之節病気他行等之者有之候ハハ其訳其組々月番■相断可申候、其内壱ヶ年も落印之もの有之候ハ、其段相糺候上判形取可申事
附たり
(宿かへ之儀、其望之家へ移り不申前ニ十人頭之取次を以其組受方之筆頭迄願ひ出歟、受組之筆頭■十人頭惣組合中示談之上子細も無之候ハハ其段聞合之上家移り可仕候、其沙汰無之猥家移り候ハハ早速家明仕せ可申事
一町内水道さらへ候儀者為梅雨故、毎年三月末■四月迄二天気見立、筆頭之内毎日両人ツ、罷出夫遣ひ仕堀置可申事
附たり
(先年■地主家主等■さらへ来り候所者其趣其節地主家主へ申渡候事)
一寵見分者十月朔日役人年行司筆頭町代小走一統相勤可申事
附たり
(当日之朝町並者勿論裏小路二至ル迄掃除之儀申付候上罷出、小路裏家之隅々隈々迄も曲突釜仕構所見糺之儀ハ勿論、所在帳之住人并無帳者之外自然無願二て家持之もの有之候ハハ得斗相糺シ候上早速家明ケ可申事
一上番之儀者霜月朔日より翌正月晦日迄相勤可申朔
附たり
(役人而巳相勤候建有之候得共、御用向差間之程も難斗、仍之役人名代として年行司筆頭へ相廻し候事ニ有之候、年行司筆頭其夜当番之人臨時差閊之儀出来仕候共、又之名代勤之儀ハ猥り二不相成候なり、尤老年二も至り候ハハ代勤願ひ有之候上之事
一自身番之儀者其夜之番頭候得者加番立番并湊番之者へ無怠相廻し候様相示し可申候、尤立番之者町中一通り相廻候上二て札壱枚相渡建二有之候、尤三月期日朔月晦■九月晦日迄ハ札数三十枚ツツ受払可仕、十月朔日■翌二月晦日迄札数三十五枚ツツ受払可申事
附たり
(霜月朔日■翌正月晦日迄上番相勤候条、上番中八其夜上番相勤候方角へ自身番誰と申名前暮方ニ相届出可申事、猶此旨諸番一統可申通置候事、表町通り斗仕候事、尤茶屋四軒除きしなり)
一加番之儀者役人年行司筆頭寺方医者町代小走相除町一統相廻し候事
附タリ、当番之人名時之数度々役家へ届ケ候事
一立番之儀者役人年行司筆頭寺方医者町代小走相除き惣町中相廻し候事
附タリ、当番人名早夜役家へ毎夜相届事
一湊番之儀者霜月朔日■正月晦日迄相廻し可申事
一立番六枚札増之儀八十月朔日■翌二月晦日迄
一革田共番之儀者年中相勤さセ可申事
附タリ、賃米として一夜年番所■差遣し米員数
一広島権現様御祭礼、文化十二年亥九月十七日早天神興権現社出御ありて、十八日還御之沙汰なりしに十七日雨天にて二十日二十一日延候也、善右衛門罷出拝見仕ル
〇亥九月申渡ス
一唐物改役年行司役 兼帯 吉右衛門
但シ唐物改方給料百目
一年番役弐人給料三百目
筆頭 同 与七郎 徳次
一茶屋支配
相見役給料百目
帳元役給料式百目
筆頭 同 藤十郎 与兵衛
〇当時在役連名
御手洗町年寄組合割庄屋 兼帯 竹原屋惣平
御手洗町庄屋 三笠屋忠左衛門
一文政 御手洗町組頭 可部屋善右衛門
文政七申四月与頭格被仰付、同九戌十一月廿四与頭被仰付候、本郷におゐて 同 油屋 藤左衛門
御手洗町年行司 廿日市屋吉右衛門
御手洗町筆頭 大和屋 藤十郎
一亥上番終り 御手洗町 綿屋甚八
御手洗町 中村屋伊七郎

★参考:現代語訳文 PDF

ウィンタージャンプ2023 足長フォトコンテスト開催決定!

お久しぶりです。YUMIです。

4年ぶりの開催です!「ウィンタージャンプ2023!」

12/10のTV放送【広島テレビ】三四郎のDearボス 第238回 12月10日(日)夕方4時55分放送!に、足長看板が写り、三四郎さんもジャンプされました。

放送の予告

これを記念して開催することになりました。

皆様、バシバシジャンプして、バシバシ投稿しちゃってください!応募お待ちしています! 応募方法の詳細は下記を参照してくださいね~

【【応募方法詳細】】

★御手洗地区ではおなじみの「足長小学生」看板の前でジャンプ写真を撮ってくださいませ。(看板は大東寺より奥、満舟寺の下にあります。)

★ 投稿写真は未発表のもののみ有効とします。

★その写真をすぐさまSNS(Instagram、X(Twitter))にハッシュタグを付けて投稿するだけの簡単エントリー!
ハッシュタグは「#御手洗地区」「#足長小学生」の二つを付けてね。
投稿をスタッフが検索して探し出せない事があります。投稿は必ず「公開」設定で行い、ハッシュタグを二つ付けて下さいね~。

★応募期間は2月29日まで。(応募期間中に投稿されたもののみ有効)

【【優秀作品】】

★足長賞3点を選ばせていただきます。選ばれた方にはなんと!足長小学生缶バッチ(足長スポーツオリジナルグッヅ)をプレゼント。

★さらに優秀賞の方には柑橘10キロをプレセント

なお、当選の連絡はDMにて行います。

★浴衣で町並みフォトコンテストin御手洗★

 

今年の夏は浴衣で御手洗地区にお出かけしませんか?
お出かけついでに写真撮ってSNSに投稿!でフォトコンテスト応募完了。
島の柑橘を使ったおいしいよーそろ堂商品が当たるかも?

フォトコンテストについて

★募集期間:7月1日(土曜日)〜9月3日(日曜日)ま
★応募方法:ハッシュタグ「#御手洗地区」と「#よーそろ2023」 を付けて公開設定でTwitterかInstagramで投稿してください。
★応募締切:9月3日
★当選のご連絡:当選者にはよーそろの井上よりDMにて連絡させて頂きます。DMが受信できるように設定お願いいたします。
★プレゼント商品
・優秀賞→よーそろ堂の商品詰め合わせ(よーそろ堂

*コンテストに応募頂いた写真は、よーそろの各種SNS、イベント等で使用させていただく場合もありますので予めご了承の上ご応募ください。
*ハッシュタグのない場合は応募とみなせませんので、必ず2つのハッシュタグをつけて投稿してください。

 

期間中、浴衣でご来店の方にドリンク値引きサービス

・「船宿カフェ若長」「潮待ち館」に浴衣で来店された方ドリンク50円引き
・「GUESTHOUSE醫のかき氷Bar」に浴衣で来店された方かき氷50円引き

浴衣着付け

期間中の7月・8月の日曜日の浴衣の着付けサービスを有料にて実施します。
・時間:12:00~16:00(最終受付15:30)
・当日でも受け付けできますが予約を優先させていただきます。
・浴衣や下駄はお持ち込みください。
・料金:¥1000
お問合せはメールにて:yukata@yosoro.com

【御手洗歴史探訪】江戸時代の代埋め立て地?御手洗地区の小路を探せ!ブラヨーソロ編

大崎下島御手洗地区の歴史を探る

古地図を頼りに御手洗を散策しました。
持ち歩いた古地図はこちら。

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*1 宝暦9年御手洗焼失の図 広島県史 近世 より

1759年に御手洗地区で大火事があり、その時に焼失した家屋を記録した地図「宝暦9年御手洗焼失の図」*1 です。
大火事の件は別で考察するとして、こちらの地図には当時の御手洗地区の区割りや町名、小路の名称などが記載されていました。
そこで、この小路が今でも存在するのか探検してみよう!ということで
「ブラヨーソロ」と称してw Youtubeチャンネル撮影兼ねて出かけました。

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地図を頼りに探検

まず先に押さえておかなければいけないのは、御手洗地区は1666年以降人が徐々に移り住み、人口増加に伴い海岸を埋め立てて広げていった町であるというところです。
先に添付した「宝暦9年御手洗焼失の図」の御手洗地区と今の御手洗地区の地図はどう見ても異なります。
1700年代中頃までの地図はこちら↓

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18世紀初頭の御手洗地区 豊町史より作成

なんと、よーそろ系列店の船宿カフェ若長がある住吉地区は影も形もございません。完全海の中ですw
この地図で見るところの弁天町から突き出た岬の蛭子町まで通りが1本ありその脇に民家が立ち並ぶという簡素なものです。
それが数十年の間に以下の図のようになります。

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18世紀中期~19世紀の御手洗地区 埋め立てが進み町が増えているのがわかる

常盤町や住吉地区ができたのもこの時期のようです。
そんな訳で、今回の18世紀中旬の地図では若長付近は出てきません。

では、改めて、小路巡りに行ってみましょう。
全編は動画を見て頂くことにして、抜粋して紹介します。

最初は弁天町から天満神社へ続く本通りから海へ続く「横屋小路」

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横屋小路 埋め立てに伴い海岸線が変わるたびに小路も折れ曲がっている

天満神社の横にあったと思われる梅屋小路

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今はもう駐車場になっていて小路は残っていない

途中の四ツ辻(交差点)

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今でいうところの大通りの交差点と思われる地点
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曖昧な個所も当然ある・・・
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櫻小路にあるさくら湯の跡

御手洗地区に行ったことがある人も、これから行ってみようと思う人も少し歴史を知ったうえでお出かけするとより楽しると思います。
ぜひよーそろの御手洗チャンネルの歴史編解説動画を見てお出かけしてみください

本編動画はこちら

#やってみた
#御手洗地区

2023年のはじまり

年が明けて半月もたってしまった。

あ、みなさまこんにちはゆみです。

船宿Cafe若長・GUESTHOUSE醫の柑橘バーはお正月から元気に営業開始しております。

今年も、皆様に御手洗地区を楽しんでいただけるようにアップデートしながら色々なサービスをご提供していきます。

よろしくお願いします。

GWよーそろ系列店の営業予定

 

皆様こんにちは。すっかり暖かくゴキゲンな天候になってきました。

心置きなくお出かけするにはしばらくかかりそうですが、よーそろの御手洗地区店舗はGWも元気に営業いたします。

もちろん、感染対策はぬかりなく、皆様を安心してお迎えできるよう整えております。

各店舗の営業日などお知らせいたします。

ご確認いただき、どうぞお気をつけてお越しくださいませ。

 

よーそろ堂ショップカードできました

皆様こんにちは、こんばんは。由美で~す。

黄金瓶詰シリーズ他を販売中のWebショップ【よーそろ堂】はもうご覧いただきましたでしょうか?
黄金瓶詰シリーズはWebショップ他、もちろん御手洗地区のよーそろ系列の各店舗でご購入いただけます♪♪

で、その黄金瓶詰シリーズやレモンタルトのご紹介パンフレットできました~!

安定の小林デザインでござりますれば、今にも柑橘の香りが漂いそうな黄金の島カラーな出来栄えでございます。
コンパクトなA5サイズ三つ折りで、手に取りやすさ抜群!お客様に負担のかからないサイズ感にこだわりました😆
見開きはもちろん工場長のアップ写真から始まります♡ほら、作ってる人の顔が見えるって良いですよね?ね?
工場長の他、パティシエあやちゃんも見放題ですょ。
webご利用の際、また、店舗にお立ち寄りの際にはぜひお手に取ってご覧くださいませ!

クラウドファンディング終了 御礼

みなさまこんにちは。よーそろ中の人ゆみです。
先日の23:59をもちまして、よーそろのクラウドファンディングが終了致しました。
40日ほどの実施で、 2,250,500円のご支援を頂きました。目標の250万円には少し届きませんでしたが、135名というたくさんの方々がご支援くださいました。
よーそろメンバー一同、心より感謝申し上げます。
心温まるメッセージも多数頂いており、お金以上に、皆様のよーそろへの思いも頂いたと感じております。
コロナ禍という厳しい状況ではありますが、頂いた思いを受け、歩みを止めることなく、より一層邁進していく所存でございます。
これより、リターン等の準備に入ります。お届けまで今しばらくお待ちくださいませ。
皆様、ほんとうにありがとうございました。
これからもよーそろをよろしくお願い致します。
まずはとりいそぎお礼まで。

センスは知識と訓練

皆さんこんにちは。よーそろ代表の井上明です。
今日は「センスは知識と訓練」というテーマで書いていきたいと思います。

建材メーカー営業マンの仕事

私は御手洗に来る前、約7年間建材メーカーの営業マンとして働いていました。建材と言っても色々あります。構造を支える木材であったり、内装材である床材、天井材、壁紙、外装材である漆喰、サイディング、屋根材等。
以前勤めていた私の会社は主にサイディングという外壁材を製造するメーカーでした。

サイディングの中でも窯業系外壁材と呼ばれ、セメントと木質系材料を混ぜ、レンガ調、塗り壁調、石積み調などにプレスし一枚の板に成形します。その板に塗装をかけ仕上げたもので、当時は新築住宅の約7割に使われていました。工期をより短くコストを抑える乾式工法で、多種多様な個性ある雰囲気をつくることができます。

私の営業先は基本問屋、販売店なのですが、商品指定が入ると否が応でも注文が上がってくるため、家を建てる施主と直接話をして家づくりを進めていく工務店や設計事務所にも当然営業に行っていました。

どのようなコンセプトでどのようなデザインにするかは施主と工務店や設計事務所が話合いを重ね、建てる家の図面を起こします。そのイメージの選択肢としても外壁材は施主のイメージを形に落とし込むためにわかりやすいツールであり、価格帯と実際の壁のサンプルがそのイメージ作りの場にあれば商品の指定として図面にも掲載される確率は上がることになります。

ただ、田舎の小さな工務店、大工さんなどは図面は起こすものの、特にどのようなイメージの商品を選ぶか決めておらず、どこかのメーカーのカタログを持っていき、予算はこれくらいだからこの価格帯から選んでくださいと施主任せにしているケースがほとんどでした。

この商品に決める”理由”が必要

カタログ、サンプルと共になぜこの商品を薦めるのか理由があると決まりやすいです。イメージをわかりやすく伝えるため当時外観パースを作成することもありましたが、そこにも”この商品に決める理由”があると喜ばれます。当然決めることは外壁材だけではなく、早く決めてもらえれば決めてもらうほど仕事は早く進むからです。(決断時間もコスト)

図面はすでに出来上がっています。洋風なのか、和風なのか、モダンなのか、洋風の中でも南欧風や北欧風などある程度立面図を見ればわかるため、提案の幅を絞ることは出来ます。一番難しいのはあまり特徴がない家の形。それと和洋折衷でコンセプトが何でもありの家。。これはちょっと残念な家になりますが、田舎ではとても多いんです。

田舎の工務店や大工さんはあまりそこまで提案しないこともあるので、いつも建てるいつものパターンの家の形というのも多いケースです。どのようなイメージの家を建てたいか、そこでどのような暮らし方をしたいのか、より施主とコミュニケーションを図り喜んでもらうために、より相手が納得するような具体的な言葉とイメージを伝える必要がありました。

言葉とイメージを行き来する

そのような仕事柄、色とイメージに関してとても興味があり、色について独学で本を読みあさり、色彩検定も取りました。
そんなとき、カラー&イメージエキスパート養成講座受講生募集のチラシをたまたま見つけ、1年間8回講義で25万円でしたがエイヤーですぐに受講を決めました。当時は宮崎市に住んでおり、家からもとても近くの場所で開催されるそのお店はパーソナルカラー講座やメイク講座などほとんどが女性客であろうお店で、私がいつも働く男臭い仕事の現場とは180度違ういい香りの雰囲気にやられたからかもしれません(笑)

少人数でしたが受講生は私以外皆女性。その講座の先生は東京在住の男性でした。

そこでは言葉(イメージ)と色には強い相関関係があり、このイメージはこの配色、この配色はこのイメージといったような多くの人が想像するものと自分のイメージの違いを知り、表現を磨く訓練をしました。

モダンといえばこの配色、ラグジュアリーといえばこの配色。それだけではなく、この芸能人のイメージはカジュアル系だとか、ナチュラル系だとか色形だけではなく雰囲気も言葉に落とし込む訓練をしました。

あまり喜怒哀楽を表に出さない男の先生だったのですが、「井上さん、それはちょっと違うんじゃないかな」としょっちゅうダメ出しを頂きました。

1年間といえど、8回講座。すぐに色とイメージを言葉に落とし込めるようになるには時間が短く。ただ、そこでわかったことは…。

センスは鍛えられるということ

センスは生まれつきものではなく、どのようなものが一般的に○○であるとされ、どう表現するとどう伝わるか。これは知識であり、知識を増やすことでセンスが磨かれるということ。

くまもんを生み出したアートディレクター水野学さんの本にもあります。
「センスは知識からはじまる」。まさにこの講座で学びました。

この講座から、仕事で「なぜこのデザインの商品を提案するのか」を伝える訓練(アウトプット)を繰り返しました。
それと同時に立ち寄るお店や施設のデザインなど、どこが美しくて、どこがダサくて違和感を感じるのか分析する(インプットの)質も少しばかり上がったように思います。

御手洗のお店づくりにおいてどこかでそれを学ばれたのですか?と聞かれることもありますが、この講座で会得したわけではなく、それをきっかけに日々感性を磨いていったというのは店づくりに活かされているかもしれません。もちろん今も磨こうと常にアンテナを張り、やってみてはやり直す日々です。

まちのデザイン

私のことは棚に上げて申しますが、日本の公共施設や町のデザインなど残念に感じるところが多々あります。予算の関係上、工期の関係上、元からこうだったから等様々な理由があることも確かですが、はっきり言うと「ダサいは罪」。もう少し深堀するならば、何も考えず配置してしまうこと、周りを意識もせずデザインしてしまうこと、それが結果罪になります。

町の景観もそうです。似通っているからこれでいこうなどと安易に決めてしまおうものなら、その周りすらも安っぽくなってしまいます。そのような町に感度の高い、ビジネスセンスを持った若者が帰ってくるでしょうか?ここに居たいと思える人が増えるでしょうか?

呉の市内に響かず、御手洗のまちにグッと来たのはそのような町全全体の”まとまり感”があったから。(残念な部分もあることはありますが)

たった一つの選定と配置が全てを台無しにすることもあれば、全てを活かすこともあります。それは料理でも商品づくり、店づくりでも同じだと思います。

今までの歴史、そして今ある現状がどのようなもので、どういったものを受け取ってもらいたいがために表現するのか、なるべく細かく分析し取捨選択し、決定していくことが重要です。

十把一絡げにしない細かなセンスと選択、判断が必要

今日から御手洗の文化施設も全て3月いっぱいまで休館になりました。
皆がやるから?ここだけ特別にすると理由を応えるのに面倒だから?

うちの宿泊は今回の新型ウイルスで大きな打撃を受けていますが、CM効果により日中の観光客は増えています。なのに。。

御手洗の文化施設はそんなにごった返すこともなく、窓が開きっぱなしで風通しも良く感染の恐れも低い場所も沢山あります。それに加えてまだまだできる予防策もあります。

それを十把一絡げにして、様々なケースを想定もせず「ハイ閉館」「ハイ止め」では完全に思考停止状態です。

今日佐賀県武雄市は市内小中学校の授業再開に関する緊急記者会見を行い3月16日から小中学校の授業再開を発表しました。もちろん移りゆく様々な状況を加味しながらですが、主体的な決断と発表をしています。

今テレビなどのマスメディアが一様に不安を煽り、その揺り戻しが起きつつある中で、広島県内に感染者で出たと言えど、細かな考察と対処法を考えず、まだそれに追従している決定と行動であることが残念でなりません。

センスとバランス感覚がとても大事です。ものごとを十把一絡げぜず必要なことと必要でないことを見極め判断する主体性が必要です。一方的な情報を鵜呑みにする思考停止人間を増やさないために何を伝えていくのか、まちづくりでも、お店づくりでもすべての表現においてとても大切なことだと私は思います。

遠回りしてしまいましたが、センス(感性)は知識と訓練によって磨くことができます。というよりも磨かなくてはいけないと思っています。情報を一元的にとらえず、様々なものの見方、判断ができるようになるために。

だから、私は「商い塾」をはじめました。皆さんにそのことを伝えつつ、私もまだまだセンスを磨くためにアウトプットとインプットを繰り返し経験を積み重ねなくてはいけません。

3月22日は「よーそろ商い塾part3」”デザイン思考”。
私がいつも意識していること、仕事づくりで意識しているポイントをお話したいと思います。
皆さんのご参加お待ちしています。

https://www.facebook.com/events/211356226909491/

2か月半でつくったゲストハウス奮闘記

皆さんこんにちは。よーそろの井上明です。
宿泊予約入らず、キャンセル相次ぎ、事業の核としていた宿事業も壊滅的な状況ですが、今はがまんがまん。再整備、仕込みなどできることをブレずにやるしかないと動く毎日です。

この機会に今までやってきた事業を振り返り次につなげていきたいと思っています。
さて、今日は築100年を超える洋館であり、元病院だった空き家を片付けから2か月半でオープンしたGUESTHOUSE醫について書いていこうと思います。

外国人も泊まれる宿をつくる!

なぜ宿事業をしようと思ったのか、以前の記事でも書きました。

https://yosoro.com/blog/wp/wp-admin/post.php?post=289&action=edit

3つの宿事業のうち、1つ目に外国人観光客を想定した低価格宿をつくろうと計画していました。
御手洗の洋館の中でもシンボル的な建物であった旧越智醫院のオーナーの先生がこれからの活用を模索しているという情報をキャッチし、ここならば外国人も日本人もきっと喜ぶと思い、オーナーの先生にお話しに行きました。

この建物は、2006年に公開された原田昌樹監督の映画「旅の贈り物0:00発」の舞台にもなっており、この場所で歌手の徳永英明さんが越智太一先生役で出演されています。
また、アニメ映画「ももへの手紙」や最近ではサントリー「オランジーナ」のCMでバイきんぐの小峠さんが駐在員役の交番にもなった建物です。

オーナーの越智先生はとても気さくな先生で、快く診察後の時間を空けてくださいました。
私がなぜ宿をしようと思うのか、この建物をどのようにリノベーションしどんな価値を伝えようとしているのかお話をしました。
越智先生は私たちの今までの活動を見ていてくださり「地域のためになり活用されるなら」と建物を貸して頂けることになりました。

片づけスタートから2か月半でオープンへ

御手洗の隣の集落大長に今は越智医院さんはありますが、10年ちょっと前までは決まった曜日で出張診察もされていたそうですが、荷物はそのままありました。
片づけをスタートしたのは1月16日。呉市の島の賑わい助成事業があり、取れるか取れないかは別として、取れた場合は3月末までのオープンが条件でした。やるしかない!2か月半で改装し、営業許可を取り、オープンする。
オープン日を3月28日に決めました。(この日は私にとって何かをはじめるのにとても良い日だったので)

まずは片づけから。いらないものといるものに分け、どんどん運び出しました。このゲストハウス醫は御手洗空き家改修5号店で、それまでの古い道具や古材をストックしておく大きな倉庫も借りていたので、とりあえずそちらへ急いでものを運んでいきました。でっかい2階にあった昔のピアノも地元豊運送さんにお願いし、窓を外しリフトで下す力技で何とか運び出しました。

構造もしっかりしている建物だったので、内装を整える作業で済みました。風呂も小さいながらタイルは一枚もはがれていなかったので、ドアは換え、脱衣所をつくるくらいにしてそのままを利用することにしました。
主な作業は、はがれている壁を削り、塗り直す作業。壁・床・天井をはがして磨く作業、またそれらを整える作業が中心です。

というのも築100年超えの過程でリフォームも何度か行われており、壁には現代的なプリントべニア、天井材、床はクッションフロアが貼られていました。なるべく建築当初使われていた風情を出したかったので、限られた時間で、どうなるかわからない、何が出てくるかわからない中で、ひたすらにはがす作業をしていきました。

インターンシップでちょうど2週間近く住み込みで手伝ってくれた筑波大学のゆなちゃんや千葉のおもてなしラボの鳥海さんにもお世話になりました(無理やり(笑))。広島大学生たちも壁剥がしに来てくれました。
その他沢山の仲間達のヘルプにより改装は進んでいきました。おかげさまです。

想定外は当たり前

下駄箱を取っ払うとその奥に昔の下駄箱が出てきたり、新しい上がり框を取っ払うと、昔の上がり框が出来てきたり、そんなことではビックリしません。面白いのが出てきた!というものもあれば、薄い壁をはがすとその先は青空だったり、床をはがすと大きな穴が開いていたり…。その度に「どうやろう」「どう乗り越えよう」と考える毎日でした。おかげでごまかし方も上手になりました(笑)

想定外と言えば、玄関ドア。昭和の重たいアルミ引き戸は換えたいと思っていました。新調するのには10万円以上はかかるし、新しいといい雰囲気がでないと悩んでいました。

そんな時奇跡が起こりました。

御手洗にはいつもうちのリノベーションでお願いしているプロの若い大工さんがいらっしゃいます。私たちのDIYも難しいところはプロに任せます。
その大工さんは私の趣向をよく知っているのですが、改装していてある日「井上さんが好きそうなのが出てきた!」と連絡をくれました。

それは御手洗で使っていた昔の木の引き戸でした。処分してほしいというものだったのですがとても凝った建具で、なぜか高さもぴったり同じサイズ、まさに奇跡でした。
建具をつくるとなるとその大工さんにお願いするので、仕事を取ってしまう形になるのですが、そんなことは置いておいて力を貸してくれる素晴らしい大工さんなんです。

それが扉がこれ。

ほんとありがたい限りです。
その後夜な夜な壁の下地を整え、漆喰を塗り、床を塗り、ベッドをDIYし、私たちも初めてのDIY作業も多くこなしていきました。

想定外と言えばもう一つ。
御手洗でつくろうとしていたゲストハウスは、呉市で実は第一号のゲストハウスでした。しばらくそういったものは出来てなかったらしく、融資を受けるために低金利で借りれる条件として生活衛生同業組合への加入というものがありました。問い合わせてみると「当分新規は受けていない。これから事業をはじめるのであれば、はじめてからでないと加入はできない」と言われました。金融機関の担当者はそんなはずはないということでしたが、加入するのにもそれなりの費用がかかること、また順繰り事務局を務めなければいけないという煩わしさも垣間見えたので別の線で考えるように諦めました。

そんな折、調べると広島県に経営革新計画(何年間の事業計画書)を提出し認められれば割かし低い金利での融資が受けれることを見つけました。やるしかないので計画書を超特急でつくり、提出し無事に計画も認められ、融資も受けることができました。結果的に費用も抑えることができとてもラッキーな想定外でした。

また旅館業の簡易宿所の営業許可を取るのですが、保健所と消防の許可が必要になります。

風営法の説明を警察署で受けることが必須になっており、警察署で説明を受けた担当者のサインが入った書類を保健所に提出しなければいけない決まりがありました。

管轄の警察署に行くと「風営法の説明をどこからどこまで説明をすればいいんだ」「なんでサインをしなくてはいけないのか」と言われ、サインもらえないんですけどと保健所に掛け合い、どうしたらいいのかと担当者とも悩みました。ゲストハウス1号店なので皆さん初めてのことが多くて。

結局、警察署にもう一度お願いしに行きました。他の管轄に電話で聞いてくれて「あ、サインしていいのね!」とやり取りをしているのを聞きながら苦笑(笑) 仕方ない仕方ない。

築100年で実は3階建ての特殊な建築物だったので、消防の方も困らせました。3月28日までに許可を下すことは相当厳しいといわれながらも、私たちの挑戦の思いのたけを叫び、さらにはテレビ局が入り「3月28日にオープンします」とテレビで流れたことも相まって、色々知恵を貸してくださり何とか28日に許可を出してもらうに至りました。年度末の人事異動でバタバタされている最中、相当無理を言いました。すみませんでした。

3月28日は私にとってとてもいい日だったようなので、ゲストハウス醫のオープンと実はもう一つ、次なる宿事業物件であった新豊の売買契約日&登記の日もこの日に設定しており、自分で売買契約も不動産登記申請も全部やっていたので広島市内まで行って契約書を交わし、法務局へも走る走る。

消防の許可書をその日の16時50分に受け取り、保健所に17時に滑り込み許可書をもらい、閉店時間17時15分に法務局で登記完了するという秒刻みのスケジュールでして…17時20分以降しばらく抜け殻になりました(笑)

実はまだまだ想定外とトラブルはあったのですが、私の胸にそっとしまいまして…とにかく3月28日にゲストハウス醫は無事オープンするに至ったのでした。

沢山の協力者、支援者のおかげでオープンを迎える

それから営業しながらも改修の日々は続くことになるのですが。
色々な方々の多大なる協力のおかげでスタートを切ることができました。

診察所部分をBARにするためクラウドファンディングも行いました。多くの方にご支援いただき、おかげさまでこちらも整備することができました。

本当に沢山の方々のお力なくしてはスタートできなかった事業です。
ご支援、ご協力を頂いた皆さんと、泊まって頂き御手洗での思い出を刻む皆さんの足跡がこの場所に新しい物語をつくっています。
こちらもまだまだ改善点ありますがこの建物と一緒に成長していけたらと思っています。

それらの物語を味わいに、皆さんもぜひ泊りにおいでください。